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室長日記 「美濃金山城跡」
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ビジネスリンクスナゴヤ室長新井です。今回訪れた美濃金山城址は、森蘭丸が生まれ育った場所とも言われています。ここは思いの外山の上まで行けます。桜の季節に訪れたので、山の上から見る桜がとにかく美しく、景色も最高でした!本丸までは少し登りますが、それほど大変ではありません。登った後の山裏の景色も素晴らしく、ここから転落すると危険なため、十分に注意が必要です。
歴史
天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。しかし正義は天文17年(1548年)に近隣の久々利城主土岐悪五郎に久々利城へ招待された際に討たれ、城主が一時不在となった。
その後織田信長が美濃国を領地としたことにともない、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称した。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も天筒山城で討ち死にしたため、次男の長可が跡を継ぎ城主となった。
天正10年(1582年)長可が信濃国川中島に転封されると弟の森成利が入るが成利は同年中に本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となる。
慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたという。
兼山城の天守が犬山城の天守として移築されたという伝承があったが、1961年(昭和36年)の犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
2006年(平成18年)可児市が約5年かけて兼山城の発掘調査を行った。当時の茶碗や瓦等の多くの遺物が出土した。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(143番)に選定された。















美濃金山城址
〒505-0130 岐阜県可児市兼山