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室長日記 「明智城跡」
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ビジネスリンクスナゴヤ室長新井です。今回訪れた城跡の中で一番大きなのは、明智城でした。信長の家臣だけあって、城もとても大きく、登るのも一苦労でした。予想外に、散歩で訪れる人も多く、賑やかでした。ボランティアのおじさんがいて、展望台で歴史の解説をしていました。説明を聞いていると、森蘭丸が生まれ育ったお城があるそうです。今回はそのお城に行くことができませんでしたが、次回改めて寄ってみたいと思います。
歴史
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。
最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける[22]。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)信長親子による政権に幕を引いた。
その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。













岐阜県可児市 明智城址
〒509-0213 岐阜県可児市瀬田